VOL.001 ロータス 相原栄蔵

日本キャンピングカー物語

2020年9月16日取材 ※文中敬称略

業界のレジェンド

日本のキャンピングカーの歴史を語るのには、まずこの方から始めなければと、無理をお願いした。

相原栄蔵、東京都練馬区にて1936年7月に生まれる。

1975年40歳の時にアメリカで出会った「バニング」が、人生を変えることになった。
一度来てみたかったアメリカに渡ったはいいが、目的があったわけではなかったので、宿泊したモーテルの1階にあったショップをふらりと訪れたことから全てが始まったという。

小さなお店の中に改造された「VAN」があった。その近くの工場では、改造作業を見た。当時の日本にはない光景だった。相原は確信したという。「これは、日本でも必ず人気になる!」そう思ってからの行動が早かった。同じ地域で開催されたバニングのイベント会場に行き、その後取引を始める「カリフォルニアバンサービス」に自身を売り込んだ。英語ができるわけでもないのに、通訳もいないなか身振り手振りで意思を伝えて行動したというのだ。
再訪の約束をし、同社の工場に出向き改造の制作工程を学んだ。そして帰国すると本格的にバン改造の業務を始めたのである。

当時の相原には、夢があったという。日本でクルーザーのようなキャンピングカーを造りたい。そして神宮絵画館裏で開催されていた国産キャンピングカーショーを見学し、日本と海外との格差を痛感した。

特筆すべきなのが、この後の相原の行動である。

日本にキャンピングカーを普及させるためには、どうしたらいいのか。
自社だけでやっていても拡大させるのには限界がある。そこで1980年に製造工場を建てたのち「キャンピングカー製造研修制度」を始めたのである。雑誌広告などを活用して日本全国から研修生を募り、キャンピングカーの製造技術を学んでもらったのだ。そしてこの研修を受けた若者たちが、それぞれの地元へ帰り独立開業、全国に「VAN SHOP」グループを形成していくことになる。

同業者を増やし、日本全国にキャンピングカーを普及させ社会的に認知させるための行動をとったのだ。

グループは全国へ広がった「バンショップ」という屋号がそれだ!
(1985年当時の雑誌広告より)

現在のVANTECH株式会社の前身である会社を設立した、故増田紘宇一も、その時代ロータスの製造部門リーダー(番頭格)であった。ほかにも現在に続く業者は数多い。 この行動が多くのキャンピングカービルダーを生み出すきっかけとなったのだ。

シェイクハンドのロゴマークを使った1985年当時の雑誌広告

1983年にキャンピングカーに「物品税」が課税されるとの事案がもちあがり、当時の大蔵省(現・財務省)東京国税などと話し合いを行うべく任意団体「日本カスタムカー協会」を設立、五反田の郵貯会館で全体会議を行うも、実態説明を受けたのち意思統一が図られずグループは解散。日本オートキャンプ協会へも協力を打診したがこれも聞き入れられなかった。

その後もキャンピングカーの普及には、やはり合法に基づく指導を受けられる団体が必要であると考え「日本RV協会」設立に奔走することになる。
全国のキャンピングカー製造・販売・輸入などにかかわる業者へ、税金の問題や運輸省(現・国交省)に対して製造、改造、登録、輸入車の扱いなどの指導や改善を、団体を作り、みんなの力でやろうではないかと広く声がけを行い、1994年 「日本RV協会」 の設立にこぎつけた。

車両の改造に関しては、すでに「車体工業会」という大きな組織があり、設立当初は小さな任意団体であった「日本RV協会」は、 運輸省(現・国交省) に相手にしてもらえない時期もあったが、仲間を増やし、粘り強く交渉することで直接指導の窓口を開いたのである。
現在「日本RV協会」は約130社の会員が加盟し、一般社団法人となった。相原は、理事(相談役)として支えている。

一般社団法人 日本RV協会

このように、日本のキャンピングカーの黎明期から、団体を設立して社会的な認知を得るまで、全力で活動を続けてきたのである。現在の業界を作ったのは、相原であったと言っても過言ではないだろう。
まさに業界のレジェンドと呼ぶにふさわしい男なのである。

長い略歴

●1965年30歳の時に練馬区内に「ロータス商会」を開業する。カーアクセサリーを中心に営業開始、屋号は「スピードショップロータス」、モータリゼーションの急拡大にともない成長する。

●1967年 ホンダN360用のレーシングパーツを開発

●1970年 株式会社に改組「株式会社ロータス」を設立

●1975年 当時創業したばかりの無限の社長、本田博俊の誘いでアメリカロスアンゼルスに渡る。偶然宿泊先の階下にあった「ホリデーホイールズバンカスタム」を訪れ、そこでオレンジカウンティで当時米国で流行していたバニングのイベントがあることを聞き見学に行く。ここで出会った「カリフォルニアバンサービス」という会社と懇意になり、その後改めて渡米しカスタム制作の技術を学ぶ。日本でもバンカスタムが人気となると判断し、バン用品の輸入販売を開始する。

●1978年頃  本格的に「キャンピングカー」製造、販売へ業務移行

●1980年 埼玉県志木市に「志木工場」設置、日本初の「キャンピングカー専門工場」として稼働、キャンピングカー製造研修制度開始、全国から研修生を受け入れる。

●1982年 アメリカで流行するVANING(バンベースのカスタマイズカー)を日本流に楽しむために、FRP製のエアロパーツの製作・販売を開始。

●1983年 キャンピングカーに「物品税」が課税されるというので、国と話し合いをするために「日本カスタムカー協会」の設立に尽力する。
しかし3年後に、この組織は解散することになった。

●1987年 日産キャラバンをベースに、FRP技術を生かしたオリジナル製品「トップルーフ」を架装したバンコンバージョンを開発。

「キャンパーキット」とも呼ばれたベッドキットは大人気だった。

●1988年 埼玉県新座市に「新座工場」設置、志木工場は木工、新座工場をFRP、車両工場とする

●1989年 日産バネットトラックベースの初のキャブコンバージョン「マンボウ」を開発。リヤのキャンピングカーシェル部分は全てFRP成型だった。

●1990年 車両営業部門を分離独立し「ロータスRV販売株式会社」を設立。以降、ロータスはオリジナルキャンピングカー・特装車製造・部品販売に特化

ロータスRV販売株式会社

●1991年 日産バネットのモデルチェンジに合わせて「マンボウ」もシェルデザインを変更してマイナーチェンジし、量産モデルとした。

●1994年 キャンピングカーに関わる同業者に協力を求め「日本RV協会」の設立に尽力する。同協会は同年3月、任意団体として発足した。

●1995年 日産アトラスベースの本格的キャブコンバージョン「EXE」を開発。フラッグシップモデルとして人気を博す。

●1995年 三菱キャンターベースのキャブコンバージョン「Gut’s」を開発。三菱ふそうディーラー扱いで、全国販売される。

●1997年 マツダボンゴフレンディベースのバンコンバージョン「イーモーション」を浅草武シートと共同開発。リヤを延長したボディにルーフ架装した斬新なデザインだった。

●1998年 当時の100系ハイエースベースの「イースペース」オリジナルのスーパージャンボルーフを架装したモデル。

●1999年 新座工場拡充、志木工場木工課を新座工場に移転、東京店を新座工場敷地内に移転

●1999年 自身が設立に尽力した「日本RV協会」の会長に就任。2001年まで務め、その後、相談役理事として同協会を支える。

●2003年 三菱ふそうトラック・バスよりキャブオーバーシェルの受注生産を開始、長距離トラックのドライバーが、ルーフ部分に増設されたベッドスペースで、ゆっくり休めることから大人気となった

●2004年 ベース車をマツダボンゴトラックに変更し3代目「マンボウ」の製造を開始

●2005年 200系ハイエースの登場に合わせて新しいスーパージャンボルーフを架装した「イースピリット」を製造

●2006年 「マンボウ」のシェルデザインを変更した「マンボウEVE」シリーズを製造開始

●2007年 「株式会社ロータス」の代表を子息の和人に譲る。以降、車両の製造や部品・用品の卸業、小売業ともに新代表の和人が担い、新たな特装車両製造業務などの事業拡張を進める。

●2008年 南極地域観測隊の依頼で、極地観測車「越冬隊ワークハウス」を製造

●2020年 ボンゴトラックベースの「マンボウ」シリーズは、様々な室内レイアウトや最新装備の搭載など進化してきたが、ベース車の生産中止にともない最終モデル「マンボウファイナルエディション」をもって終了することとなった。

現在は、代表を子息の和人(写真左)へ譲り、悠々自適な身ではあるが、「キャンピングカーアドバイザー」という肩書の名刺を持ち、イベントや展示会などにも積極的に顔を出す活躍ぶりである。

余談だが、相原は、キャンピングカーのヘビーユーザーでもある。自身のオリジナルモデル?「Eizo Special」号で、全国を旅しているのだ。
どこかで見かけたら、気軽に声をかけてみよう、きっと満面の笑顔で「なに?どうしたの?クルマの中見たいの?いいよ!!」と相手をしてくれるに違いない!
レジェンドは威張らない、やさしくてかわいいのだ!!

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写真/文:山本公紀